生い立ち
デイヴィド・ヒュームは、旧暦の1711年4月26日にエディンバラで生まれた。彼の家系はヒューム伯爵家につながっていて、父ジョウゼフは、イングランドと境を接するベリックシャーのナインウェルズと呼ばれる小さな領地を管理するかたわら、エディンバラで弁護士の業務に従事していた。母キャサリンは高等法院長官の娘で、デイヴィドには1709年生まれの兄とその翌年に生まれた姉がいた。1713年に父は若くして世を去り、3人の子供は母の手一つで育てられた。デイヴィドは12歳になる前にエディンバラ大学に入学して、古典語、論理学、形而上学、道徳哲学のほか数学と自然哲学を学んだが、15歳のときに、当時のしきたりに従って学位を取得せずに大学を去っている。もともと彼の家は裕福ではなく、次男の彼に残された遺産はわずかなものだったので、家族の者は彼が法律家として自立することを期待していた。けれども彼は、法律の勉強に身を入れることができず、哲学と文学に熱中した。
のちに『人間本性論』のなかで示されることになる「思想の新しい情景」が彼の前に現われたのは、1729年、彼が18歳のときのことであった。しかし、この発見に興奮して思索に集中しすぎたために、ヒュームは心身の健康を損ねてしまった。不安定な精神状態が何年も続いたので、彼は、もっと活動的な生活に入るほうが心の健康のためにも経済的な自立のためにもよいと考えるようになって、ブリストルの商人のもとで働くことにした。けれども、4カ月もしないうちに、彼は自分が商人の生活に不向きなことを悟った。1734年の夏、彼は文筆で身を立てる決心を固め、妨げられずに研究を続けるためにフランスに渡った。
ヒュームは、最初の1年間はランス、その後はラフレーシュに住んで、『人間本性論』の執筆に専念した。ラフレーシュにはかつてデカルトが学んだイエズス会の学院があって、ヒュームはそこの図書館を利用し、僧侶たちと議論を交わした。1737年の秋に第1巻と第2巻の大部分ができあがって、ヒュームは出版者を見つけるためにロンドンに帰った。しかし、若い哲学者の大部の著作を出版することは大変困難であった。1739年にやっと、知性と情念について論じた最初の2巻の出版にこぎつけたが、道徳について論じた第3巻の刊行は、翌40年、別の出版者に頼らなければならなかった。
人間学の構想
ヒュームは、この最初の著書の冒頭で、「ほとんどまったく新しい基礎のうえに、学問の完全な体系を築くこと」がこの本のねらいであると宣言している。人間の自然本性についての学問−人間学−は「他の諸科学の唯一の堅固な基礎」となるべきものであり、その人間学の唯一の基礎となるものは「経験と観察」である、と彼は考えたのである。彼に先立つキリスト教神学者や形而上学者の圧倒的多数は、理性を神から与えられたものとみて、人間は、理性を用いることによってのみ、神の存在と本性を確認し、宇宙を構成する究極的な実在や道徳の永遠の真理をとらえることができるのだと信じていた。ヒュームの宣言は、こうした考え方の基礎にあるキリスト教的人間観に真っ向から挑戦するものであった。彼は、人間の自然本性をもっと大きな自然の一部として位置づけて、認識と感情の基本的な能力を他の高等動物と共有のものとみる。われわれの「理性」は真理への特権的な通路ではなく、「動物の理性」に言語能力が加わった変種でしかない。理性が経験の基礎のうえで知られるものを超えていくことができると考えるのは、宗教を笠に着た人間の傲慢さを示すものである。だが、その宗教そのものは、人間がつくったものなのである。独断的な理性主義の虚妄は、それが果てしない論争以外のなにものも生み出していないことのうちにすでに示されている。それに対してヒュームが意図したのは、「人間本性の原理の解明」を、人間本性の究極的根源的な性質の解明から、心のはたらきが互いに結合する仕組みとそれを制御する仕方の観察へと、大きく転換させることであった。この転換によって、事実に関する知識が蓋然的な知識以上のものではありえないことが明らかにされ、それと同時に、因果推論を改善するための諸規則が示されることになる。それは人間の日常生活を支えている規則である。科学はそれを基礎として成り立っているし、また、科学としての地位を獲得し維持しようとするかぎり、それを基礎として構築されなければならない。こうした考え方に従って、ヒュームは、情念を蔑視して、理性を蝕む非合理的な要素とみなす伝統的な見方を排除して、情念に積極的な位置づけを与え、情念と意志のはたらきを観察によって説明する道を開いていく。道徳も、人類がさまざまな環境の変化に対応して自分たちを組織してきた、人間的な活動の所産としてとらえられることになる。ヒュームの方法は、知識も倫理も政治的秩序も、宗教による基礎づけを必要としないことを明らかにするだけでなく、それと同時に、なぜそれらのものに宗教的な基礎が必要であると考えられるようになったのかを説明することを可能にした。こうして、懐疑論的疑念についてのヒュームの懐疑論的解決は、人間知性の活動範囲を制限するのとは反対に、人間の狭い知性能力に最も適した主題に探求を限定することによって、人間知性の活動範囲を拡大する道を開くものとなったのである。
『人間本性論』への最初の反響
『人間本性論』は「印刷機から死産した」と、ヒュームはのちに書いている。彼は反響の少なさに不満をもったが、それと同時に、第1巻における不備も認めて、その一部を訂正した文章を第3巻に付録として付け加えている。彼は、世間の注目をよび起すために、論旨を簡単に説明したパンフレットも作成した。しかし、関心を向けられなかったというのには、たぶんに彼の思い違いがあっただろう。反響はのちに思いがけないところに現われた。彼が44年にエディンバラで、51年にグラズゴーで、教授の職に就くことを拒まれたのは、反宗教的な思想の持ち主という評判があったからであるにちがいない。
思想の展開
『本性論』の不成功に落胆したヒュームは、エディンバラに帰って、41年から42年にかけて『道徳・政治論文集』(58年に増補版を『著作集』に収めたときに『道徳・政治・文学論文集』と改題された)2巻を世に問うた。そこに収められた論文の多くは、『本性論』の思想を、道徳と政治の世界の現状と歴史的変化の考察に具体化したものとみることができる。これがかなり好意的に受け入れられたことで自信を取り戻したヒュームは、『本性論』第1巻の鋳なおしに取りかかった。48年に『人間知性に関する哲学論文集』という表題で出版されることになるこの著作(50/51年に第2版が出されたあと、58年に『著作集』に収められたときに『人間知性の探究』と改題された)では、論述の思い切った削ぎ落としが行なわれる一方、『本性論』で省かれた「奇跡論」と「摂理論」が付け加えられて、反宗教的な性格がいっそう明らかにされることになった。この間、ヒュームは、45年にアナンデール侯の家庭教師としてロンドンで暮らし、46年に、遠縁にあたるセント・クレア将軍の秘書として遠征に参加、47年には軍事使節に任命された同将軍の副官となって、ウィーンとトリノに随行している。48年に、『哲学論文集』のほか、『道徳・政治論文集』の新版と、『道徳・政治三論』(ヒュームはこの本ではじめて著者名を明かした)が出版されたときには、ヒュームはまだトリノに滞在していた。ヒュームを高く評価したモンテスキューとの、7年間にわたる定期的な文通が、この時期から始まった。
1751年に、ヒュームは『本性論』の第3巻を書き改めた『道徳原理の探求』を出版している。晩年のヒュームは、これを自分の書いたもののうちで「比較を絶して最善の著作」と言っているが、出版当初はそれほど注目されなかったようである。それに引き換え、52年に出た『政治論集』は、内外からの評判を集めて、翌年までに3版を重ねた。
歴史家ヒューム
1752年に、エディンバラの法曹図書館(いまはスコットランド国立図書館)の館長に任命された機会に、ヒュームはその蔵書を利用して『英国史』の執筆に着手した。57年に辞任したあとも、彼は執筆のために引き続きこの図書館を利用したようである。この著作は、ジェームズ1世からジェームズ2世までの時期を主題とする2巻が54年と56年に、チューダー朝史2巻が59年に、シーザーの侵略からヘンリ7世までを扱った2巻が61年と62年に、というふうに、歴史を遡るかたちで出版された。全巻が完結した直後に、出版社は歴史の順序に従った新しい版を出している。最初に出版された2巻は、同時代の政治に直接つながる問題を扱っているために、はげしい論争の的になったが、いずれにしても、この本は非常な傑作とみなされたので、それ以後ながく、彼は哲学者としてよりも歴史家として高い評価を受けることになる。しかし、『道徳・政治論文集』と『政治論集』が、政治制度の展開、商業の勃興、学芸の開花を、先行する諸条件との因果的な連関のなかでとらえ、そのつながりの規則性を見いだそうとしているのと同様に、『英国史』も、「実験的推理方法を道徳的主題に導入する」という『本性論』の企てを継承したものとみられるべきであろう。
宗教界からの圧迫
ヒュームは、『英国史』の執筆と並行して新しい論文集の刊行を計画し、そのなかに「自殺論」と「霊魂不滅論」を収めようとした。どちらもキリスト教の教義に真っ向から対立する文章である。しかし、このことを伝え聞いた宗教界の大物の干渉を受けて、計画は印刷中に急きょ変更されなければならなくなった。ヒュームは2つの論文を取り下げて、代わりに「趣味の規準について」という論文を収録することにした。1757年に『四論文集』という表題で公刊されたこの書物の冒頭に置かれていたのは、彼の代表作の一つとなる『宗教の自然史』である。この論文で、ヒュームは、宗教の動機を無知と恐怖にあるとしたうえで、その後の宗教の形態変化を論じているのであるが、そのなかで彼は、多神教から一神教への進化は道徳的には後退であったと述べている。一神教は熱狂と不寛容への自然的傾向をもち、異端とみられるものに対する暴力的で不道徳な行為の原因となるから、社会にとって危険である。それに対して多神教は、多様性について寛容であり、人類をよりよい生活に導く徳性を助長するから、一神教よりもすぐれている、と彼は書いていた。はたせるかな、彼は出版にあたって、宗教的な党派の猛威を実地に経験しなければならなかったのである。
『哲学著作集』の刊行
1758年に、ヒュームは『本性論』を除くすべての哲学的著作を、『著作集』にまとめることにした。『著作集』は彼の死の翌年までに8回版を重ねたが、そのたびに彼は、倦むことなく彫琢に励んでいる。『英国史』についても同様で、9回目の版が出るまでの間、彼は手を入れる努力を惜しまなかった。
フランスの啓蒙思想家たちとの交際とルソーとの争い
1763年に、ヒュームはフランス大使に任命されたハートフォード伯の秘書となった。彼はパリの社交界でまれにみる成功をかちとった。人びとは尊敬と親しみを込めて、彼のことを「善良なダヴィド(le
bon David)」と呼んだ。ディドロ、ダランベール、ドルバックといった人たちが、彼の最も親しい友人となった。ハートフォード伯の帰国後は、ヒュームは代理大使に任命された。66年の年頭に、ヒュームは、フランス政府の追及を受けていたルソーを同伴して帰国した。しかし、ルソーの被害妄想のためにヒュームの好意はかえって仇となり、両者は決定的な仲違いをすることになる。それは、フランスの知識人たちも巻き込む大きな争いとなった。
エディンバラへの隠退
67年から68年にかけて北方省次官の職務に就いたあと、ヒュームはエディンバラに隠退した。新市街のセント・アンドルー・スクエアに面して彼が新しく建てた家には、アダム・スミス、ヒュー・ブレア、ウィリアム・ロバートソン、アダム・ファーガソンといった人たちや穏健派の聖職者たちが集まった。アメリカから来たベンジャミン・フランクリンも彼の家に長期間滞在している。ヒュームは、若者や市井の人びとも仲間に引き入れた。
ある日、彼と親しかったナンシー・オードという女性が、通りに面した彼の家の壁に「セント・デイヴィド・ストリート」とチョークで落書きをした。それを見て怒った召使に、ヒュームは、「気にしなくてもいいんだよ。むかしから大勢の立派な人間が聖者にされているんだからね」と言ったと伝えられている。それ以来、人びとはその通りのことを「セント・デイヴィド・ストリート」と呼ぶようになった。のちにそれが道路の公式名称とされて、今日にいたっている。
ヒュームを聖者の列に加えたのは、ナンシーが最初ではなかった。50年代にすでに「スコットランドの聖デイヴィド」と呼ばれた記録があるし、ヴォルテールもヒュームのことを「聖ダヴィド」と呼んでいた。この時代の人にとって、「善人」と「聖者」との間には大した違いはなかったのである。
哲学者の死
晩年のヒュームの生活は、哲学者としての自分の役割を「学問の国から会話の国への使節」のようなものと考えていた彼にとって、とりわけふさわしいものであったにちがいない。しかし、72年ごろから体の不調に悩まされるようになった彼は、76年8月25日に静かな死を迎えることになる。彼の病気は大腸がんだったと考えられる。8月29日、出棺を見送るために、大勢の人が、激しい雨のなかをセント・デイヴィド・ストリートに集まった。群集のなかの一人が「あの人は無神論者だった」と言ったとき、別の人が「いや、彼は正直な人間だったんだ」と言い返したと伝えられている。
死を目前にしたときのヒュームの冷静さについては、ジェームズ・ボズウェルとアダム・スミスの証言がある。ボズウェルは、「信心のない人間」は「死ねば何もかも無くなってしまう」という考えを、死が近づいたときにももちつづけていられるものなのかどうかを見たいという好奇心から、ヒュームを訪ねた。ボズウェルは、ヒュームが相変わらず冷静なのに驚かされた。ヒュームは、肝心な死と来世の可能性については冗談をとばし、すぐに話題を転換して、スミスの『国富論』を推奨し始めたのであった。死の数日前に尋ねてきたスミスにも、ヒュームは冗談話をしている。自分は世間の人びとの目を覚まさせて、そこらにはびこっている迷信の体系が崩壊するのを見たいから、三途の川の渡し守のカロンに、もう少し待ってくれと頼んだけれど、そんなことは何百年たっても起こりはしないぞと言われてしまった、というのである。
ヒュームの話では、そのときにもう一つカロンに頼んだことがある。それは著作の改訂をもう少しさせてもらいたいということだったが、これも、いつまでやってもきりがないではないかと断られてしまった、とヒュームはこぼしている。ヒュームは、死の直前までその仕事に励んでいた。とりわけ彼が精魂を傾けたのは、51年に最初の草稿を書いた『自然宗教に関する対話』を完璧に仕上げることであった。ヒュームはスミスに、これを彼の死後に出版することを何度も頼んだ。しかしスミスは、最後まで返答を避けつづけた。出版の責任を負うことに身の危険を感じたからである。いくつかの曲折があったのち、『対話』は哲学者の甥のデイヴィドの手で1779年に出版されることになる。
しかしスミスは、『対話』の出版どころか、別のことで世間の非難を浴びなければならなくなった。ヒュームが心の平安を保ちつつ死を迎えたことを報告し、彼が人間性の尊厳を体現した人物であったことをたたえたスミスの文章が公表されたとき、不信心な人間が尊厳性を保ちうるはずがないと信じ込んでいた人たちが、いっせいにスミスに非難の言葉を浴びせたのである。
その後もながく、ヒュームは、『対話』だけではなく、そのすべての著作によって、世間を騒がせてきた。彼の思想が、多面的な発光体のように、いくつもの異なる光のなかで考察されつづけているからである。
中央大学「ヒューム・コレクション」とヒュームの自筆書簡について
中央大学図書館の「ヒューム・コレクション」第1部には、ヒュームが生存中に手がけた版のすべてが、その後の諸版とともに揃えられており、第3部には、これに関連する18世紀イギリス思想文献が幅広く集められている。第2部は自筆書簡20通(L-1〜15,
NL-1〜5)と同時代人のメモ(NL-6,
7)からなっていて、ハリファックス伯爵あての1通以外はすべて隠退後に書かれたものである。そのうちで伝記的に最も重要なのは、死を迎えるまでの4ヶ月間に兄のジョンにあてて書かれた13通と、ヒュームが結婚したいと願っていたナンシー・オードにあてた4通(うち1通は兄のジョンがヒュームの遺言を伝えたもの)であるが、ここでは、ほぼ年代順に、中大所蔵の全書簡の内容とそれに関連することがらを説明していくことにしよう。
書簡から知られる晩年のヒューム
ハリファックス伯爵あての書簡(NL-1)は、ヒュームが大使館員としてパリに着任したばかりの時期に、文書連絡の方法の改善を提案したもので、われわれはそこからヒュームの勤務ぶりをうかがい知ることができる。ヒュームはパリの社交界で、知識人として尊敬を集めただけでなく、その人柄によっても人びとから親しまれた。彼は身近な人たちにいつでも温かい思いやりをもって接していた。パリで知り合った若い友人ジャック(パトリック・クローフォードの息子ジョン)にあてて離任後に書かれた書簡(L-15)には、そのことがよく示されている。ジャックは放蕩息子で、父親を困らせていた。ヒュームは、両者の険悪な関係を修復させようとして忠告を与えている。彼は若い人間のことを放って置けない性分であった。
しかし、この書簡でヒュームがいちばん書きたかったのは、ジャックもよく知っているホレース・ウォルポールのことだったようである。この書簡が書かれたのは1766年11月5日で、これは、ダランベールの勧めで『ヒューム氏とルソー氏との間に起こった争いに関する簡潔な報告』を匿名で出版した直後のことである。書簡の後半はその出版をめぐる内輪話で、ヒュームは、『報告』に掲載されたダランベールの宣言がウォルポールを傷つけたことに不満を表明している。ウォルポールはパリでヒュームと毎日のように顔を合わせていた仲であった。彼は、ヒュームがルソーという人物を信用しきっていることに早くから危惧の念を抱いていたのだが、「プロシャ王よりルソー氏に呈す」という彼が書いた偽書簡が、騒ぎを静めるどころか、かえってますます大きくするという結果を招いたので、彼は深く悩んでいた。その最中にダランベールが彼を冷たく突き放したのだから、彼の立つ瀬はなくなってしまったのである。
ダランベールにとってルソーは憎むべき相手でしかなかったが、ヒュームとウォルポールにとっては、ルソーは親切を仇で返した人間であった。ルソーに対する思いやりが、かえって逆の結果をよび起したのである。だから、ルソーを憎んだといっても、ダランベールとヒュームとでは憎しみのありようが違っていた。ルソーに対するヒュームの憎しみは、ウォルポールへの友情とつながっていた。
翌年の5月にルソーがイギリスを去ったころには、ヒュームはいつもの「善良なデイヴィド」に戻っていて、ルソーを官憲の手から守ってくれるよう、チュルゴウやブフレル伯爵夫人に依頼している。
ヒュームは一生を独身で通したが、兄の一家とは家族的な関係を保ちつづけ、とりわけ兄の3人の子供に対しては、長男のジョウゼフ(ジョウジーまたはジョー)あての書簡(L-14)にも述べられているように、母親以上の態度をもって接していた。新市街の新しい家に引っ越した直後に書かれたこの書簡では、ヒュームは、彼の世話で軍隊に入ったジョウゼフに対して、節制して軍人としての鍛錬に励むこと、スコットランドなまりを直す努力をすること、読書に親しむことなどについて、冗談めかした口調で忠告している。
エディンバラに隠退してからのヒュームは、財務裁判所長官オード男爵の一家と親交を結んでいた。ヒュームととくに気が合ったのは、3番目の娘ナンシーだった。ヒュームは、男爵が会った盗難事件について、彼女にあてて親しみを込めた手紙を書いている(NL-2)。やがて二人は結婚を考えるようになった。ヒュームが新しい家の壁紙の選択を彼女に任せたのは、そのためだったのかもしれない(NL-3)。しかし、ヒュームはすでに60歳であり、年齢の差を考えると、彼としてはためらわざるをえなかっただろう。ナンシーがヒュームの家の壁に「セント・デイヴィド・ストリート」と書き付けたのは、ヒュームのためらいに対する彼女のいらだちを示すものであったかもしれないし、ヒュームがそれを消させなかったのは、彼女のいらだちに共感したからなのかもしれない。結婚のうわさはフランスにまで広がった。しかし、1772年ごろから、ヒュームは体の不調を感じるようになる。
親しい人びととの別れ
1775年の春から腸の異常と出血に苦しめられるようになったヒュームは、翌年の4月、友人の医師ジョウゼフ・ブラックの勧めで、共通の友人サー・ジョン・プリングルの診察を受けるためにロンドンに行くことにした。ヒュームは、短い『自伝』を書いてから、4月21日に南に向けて出発した。4月23日付の旅先からの最初の書簡で、ヒュームは兄のジョンにあてて無事にモーペスに着いたことを報じている(L-1)。27日付の書簡(L-2)は、前便を書いた直後に、ヒュームを探してロンドンから北上してきた従弟のジョンとアダム・スミスに会えたことを知らせたものである。スミスは母親の病気の様子を見るために郷里に急行しなければならなかったが、ジョンはヒュームと同行することになった。一行は12日間の旅を無事に終えて、5月2日にロンドンに到着した(L-3)。プリングルはバースの鉱泉で療養することを勧めた(L-4)。5月6日、ヒュームは、結腸の萎縮という診断を受けたことを兄に知らせる手紙を書いてから、バースに向けて出発した(L-5)。バースに着いたヒュームは召使を雇い、生活費の準備も整えている(L-6)。しかし、ひと月たっても鉱泉の効果が現われないので、6月10日付の書簡で、ヒュームはエディンバラに帰ることを兄に伝えた(L-7)。同じ日のナンシーあての書簡では、彼は死が近づいたことを打ち明けている。「私が書きながら涙を流しているように、きっとあなたも読みながら涙を浮かべることでしょう」(NL-4)。
その後7月10日までのほぼひと月間のことについては、彼自身の書いたものは残されていない。しかし、エディンバラへの帰途で、ヒュームはかなり消耗してしまったようである。7月10日付の書簡によると、ヒュームは、バースの医者からは肝臓病という診断を受けていたが、帰郷してから診てもらったエディンバラの3人の医師は、肝臓の疾患のほうは大したものではないという判断を下した。「イングランド人の医者」はあてにならないということで、ヒュームとスコットランドの3人の医者たちの意見は一致したらしい(L-8)。7月中は病状が急激に悪化することはなかったようだが、馬車に乗ることもかなわなくなるほど、ヒュームの体は衰弱していった。しかし、そんななかでも、彼にとって気がかりなのは、同居している姉の体調がすぐれないことであった(L-8,9,10,11)。
8月13日に、彼はブラックから余命いくばくもないことを告げられた。
これは「私にとって嫌な報せではありませんでした」と彼はこの日の手紙(L-12)に書いている。「ブラックが言うには、たぶん予兆もなく衰弱死していくだろうとのことです。しかし、日ごとに弱っていくのを感じてはいますが、今のところはまだ死にそうではありません。……」兄さんには会いたいけれど、三男のジョンが来てくれているのだから、兄さんはまだナインウェルズにいたほうがいい。病気のジョウゼフを一人っきりにしてはいけないし、デイヴィー(次男デイヴィド)も残しておいたほうが、義姉さんも安心だろう。
しかし、8月20日には急速に衰えがきた。ヒュームは、兄さんにひと目でも逢えれば心が休まる、一刻も早く、デイヴィーと一緒に来てもらいたいと、乱れた字で書く(L-13)。同じ日にヒュームは、14年にわたって親密な友情を保ってきたブフレル伯爵夫人にあてて、彼女が8月2日に愛人のコンティ公を亡くしたことへのお悔みを述べるとともに、自分の死が目前に迫ったことを伝えている。
この2通が、ヒュームが自分で書いた最後の書簡となった。3日後の8月23日に、彼はスミスにあてて、『対話』の版権を甥のデイヴィドに譲ったことを知らせる手紙を出している。しかし、このときにはすでに、彼は自分で筆をとることができず、手伝いに来ていた甥ジョンの手を煩わさなければならなかったのであった。
9月2日付のナンシーあての書簡で、兄のジョンは、「友情と愛の記念として指輪を購入するために10ギニーを贈る」という、故人の遺志を伝えている(NL-5)。
(本学元教授 池田貞夫)
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